平成の太宰治

本業の傍ら、個人事業/完全報酬がコンセプトの結婚相談所を運営しています ニックネーム「平成の太宰治」の由来は、 平成生まれで、人間失格だから、です。

私は日本軍の下等兵

•日本軍
それは天皇陛下に身を捧げ殉じた、今は亡き組織日本軍が存在していたのは、たった80年前だ。だが、社会の変化は著しく早く、我々の記憶の彼方から消えようとしている
日本軍の上下関係は厳しく、指導という名の虐めが頻発する。そして、虐めの種類も多かった。ベッドのメイキングが少し乱れていただけで殴られ、靴磨きで汚れが残っていれば蹴られる。"体の両横にある机の上に手を置き、ただただ自転車漕ぎをする"といった虐めもある。その最中、敬礼や手放し運転など理不尽な指示も飛んだ

では、日本軍と母親がどう繋がるのか?
それは"閉鎖的"という観点だ
話は高校2年生が終わった春休みに遡る

 


•金銭の壁
学びたいことが学べないなら、大学に行く情熱は無かった。
そもそも、学びたいことがなかった。だが、全くなかったというと嘘になる。
「担任が推薦状を出してくれるから」と神奈川歯科大学に行こうかと思ったが、母親に学費が高すぎて無理と言われた。偏差値は充分に足りていたし、高校3年になって、やっと自分が興味を持った分野だったので無念だった。それから、理工学部を勧められたりしたがあまり興味が湧かなかった。周りは自分より成績が悪い人の方が多いので、寄付金での裏口入学や定期試験の点数の水増しなどで次々と大学に合格。そんな不正を間近で見ていたこともあって、受験勉強への興味が徐々に薄れていってしまった。
浪人した生徒もいる。つまり金持ちだ。予備校の学費は半端ない。私は何もしないまま高校を卒業して人生のレールを外れた。浪人生が羨ましく思えてきて、自分が情けなさすぎてすごくショックだった。
私は最終的に専門学校に進学した。
だが、母と分かり合える事は無かった

理工学部は定員割れで、推薦枠で行けた。私の成績は一貫クラスなら上位5人の中にいたので、苦手科目は極論テストが全部白紙でも理工学部は確実だった。
気づいてしまった
あぁ。大学に行きたいのは自分じゃなく、母親だったと
。大学に行く理由が見当たらなかった
。
そして、大学に行く理由、大学に入り働く意味を改めて考え始めた
自分の人生に選択権が無かった事に初めて気づいた
今までの人生は、虚構だった
夢から覚めた

•大学に行かなかった理由
今までは、親の敷いたレールの上に乗って生きていた。良くも悪くも楽だった。だが、そのレールが無くなり、自分自身の足で歩く時、どこへ向かえば良いのか分からなかった。また、親が決めた事が全てで、自分が欲しいものを明確に言えない「なんでもいい症候群」に罹っていた私は岐路に立たされた。
勉強をする"意味"や学校に行く"意味"すら考えたことがなかった。ロボットから人間に進化した、とも言える。中学受験も習い事も中高の勉強も"やる意味"を考えた事がなかった。言われるがままだった。
頭が良いから大学に行く。それは、高偏差値なら当たり前なのかもしれない。だが、それに疑問が生じた瞬間、何の為に大学に行くのかを考える必要に迫られた。
私は日本軍の下等兵だった。母親という日本軍の上層部の通りに、軍務令を処理し続けていた。ついに、疑問が出てきた。だが軍の上層部(親)に作戦変更、作戦が正しいかどうかを話し合おうとしても取り合ってくれなかった
しかし、考えても何も分からなかった。名前を書けば行けるその辺の大学が何をするのかも全くわかりえなかった。何がやりたい事なのか分からなかった
そして、他にやりたい事もなかった。興味がある事は殆ど無い。数学が得意だったから理系志望というだけだった。凄い人になって、私を虐めた同級生を見返してやりたいという気持ちもあったから、歯学部か理工学部。もし金銭的に余裕があれば、歯学部に行っていたのかもしれない。数学が得意なら、今だったらプログラミングを学んでエンジニアになるんだろう。そんな職業が存在する事すら知らなかった

当時は総理大臣の名前も知らない世間知らずだった。新聞も読まないし、ネットで検索するのもAKB48ぐらい。学校という狭い枠の中でやらなきゃいけない事を自分の意思とは無関係にやっていた(やらされていた)。それに疑問を感じなかった。そして、学校での人間関係は全て遮断していた。当然だ、テストには出ないのだから
私に人権は存在しない
だが、成績を取らなければ怒られる事を敏感に感じ取っていた私に、勉強を頑張らないという選択肢は存在しなかった
母親に「なんで大学がいいの?」と聞くと「将来困らないために。どこでも良いから行け(笑)」って。他人事だった。さらに、
「お金を払ってるんだから、親の言う事を聞け」

「今まで掛けた塾のお金が勿体ない」

「学費にいくら掛かってると思ってるんだ!」

と色々な事を言われた。いちいち、罪悪感をなじってくる。学校も受験も塾も、自分から行きたいと言い出したわけじゃない。むしろ、塾は必要ないから辞めたいと言ったら反対された。親の言う事に反抗できない、自分の我を押し通せない良い子だった。

「成績が良いのに、勿体ない」
「勉強しか出来なくて、中途半端なんだよ!!」
「学部なんかで悩むな。大学に入ってから、やりたい事を探せばいい」

何としても母は私を大学に入れようとした。
「大学に行かないなら、家から出て行け」と一回だけ言われた気もする。気もする、というのはあまりにもショックで記憶が曖昧だからだ。
好きで私立に行っているわけではない。親に私立へ連れて行かれたから行ったのであって、成績下位の金持ちばかりの奴らに虐められ、毎日屈辱感に苛まれることが事前にわかっていたなら私立には行かなかった、そして成績も取らなかった。だが、私立へ行き多額の金を注ぎ込み大学に行ける成績を取った事で選択肢が逆に狭まった
「どこでも良いから、大学に行かないと勿体ない」
これは何百回も言われて、祖父母にも言われた。だから、勿体ないという言葉は地球で一番嫌いだ


母親は、「大学」という宗教の信者だった。エルメスのバッグやベンツの車などのブランドと一緒だ

人は何かにすがらないと生きていけない

だから、分かりやすい学歴を信仰する。それは一種の宗教だ。

大学に行けば救われる。
大卒資格があれば、一生食う事に困らない
大卒になれば幸せになれる

確かに、現代の日本では確かに事実かもしれないが、18歳の私には分からなかった。母親を改宗させる事はできなかった。オウム真理教の様に、 ISの様に、一度信じ込んだ教義を他人が辞めさせることは難しいのかもしれない。大学はカルト宗教では無いが、学歴が全てとなると心苦しかった。

何度頼んでも歯学部はダメだと言われた。浪人もダメだと。散々大学に行けと言っておいて身勝手すぎる。歯学部がダメなら、「歯学部以外で考えなさい」と最初に言うべきじゃないか。

母親と喧嘩をして「死ね」と何百回も思った。それでも母親はへこたれず、「親が子に間違ったことは言わない!!」と。自分が間違っているという認識は1ミリも無かったから、話し合う土壌はなかった

 

•浪人or理工学部

担任教師と何度も面談をした(一貫生で成績トップ5に入る私が大学に行かない、正確には金がなくて行けないと言ってきたのだから当然だと思う)。今思えば母親より担任に世話になった。感謝している

夏休みも必要ないのに家庭教師の頻度を増やされ、テスト前は週1で来るようになった。勉強時間を増やす為か、携帯は回収された--やりとりをするような友達はいないから、問題なかった--
母親は重度の心配性だった。私を大学に行かせたかった理由は、周りの母親へのマウントもあるかもしれないが、一番大きいのは"女手ひとつで子供を大学へ行かせた"と周囲に自慢したいのだろう。女手ひとつ聞くと事情を知らない他人は離婚した後仕事と子育てを両立して頑張ってきたと想像してしまう。実際は違うのだが。離婚後は父が我が家の家賃と学費を払っていたし、母はパートをしていたが、散々父の脛を齧りながらも「生活費を入れてもらえるから」と不倫相手を同居させ金を貢がせていた。(だから、父に感謝するというのは筋が通るし、実際感謝している。が、母に感謝するというのは筋が通らない。)それから、母親はバブルの時に就職したが、その後の不況・就職氷河期で資格が無いと食ってはいけないと思ったのだろう。確かに、大企業でもリストラされる時代だ。心配性が、教育ママを生んだ。(気持ちが分からないでもないが)、「あなたの為」と言われると心苦しかった。自分の子供を良い大学に行かせたい気持ち、それは完全なエゴだ。「あなたの為」、これは卑怯な言葉だった
大学に行く"空気"は完全に醸成された。今更、作戦を変更する事はできなかった
祖父にも散々言われた「親の言うことが聞けなら、人間をやめろ」言われた事を記録し将来突き付けようと思ったが、可哀想だと思って辞めた
父は放任主義だった。母と私の間に入って調停する事はなかった。むしろ、誰の味方でも敵でもなかった。借金したとはいえ、それ自体が罪になることはないのに、母親の身勝手な理由で離婚を言い渡され、母親の不倫にもなんとなく気付いていただろうから、精神が参るのは気持ちとして分かる。が、それでも大黒柱としてはもう少し頑張って欲しかった。

母はいつでも「今我慢すれば、後で楽になる」と言っていた。その言葉は欺瞞に満ちていた。中学受験、学校のテスト…永遠に我慢が続き、いつまで経っても楽しくならない。

働いて年収〇〇円になれば楽になる、結婚すれば楽になる、会社(病院)を定年まで働いたら楽になる…
老人になったら楽しくなるの?
遅すぎない??
死ぬ間際が、1番楽しいの???
我慢するのは大事だが、今を犠牲にする人生にうんざりしていた。

どんどん、自分の進路をどうすればいいか分からなくなった。神奈川歯科大は受験をすれば多分受かる(同級生の1人は神奈川歯科大に行った)。だが、国公立大学歯学部に入れる可能性は低い。浪人はダメと言われた。金がないからだろう。大学進学以外を選択すれば、母親の思い通りにならずに済むが毎日文句を言われる事は必至だ。とりあえず大学に行けば、何も言われない安寧な暮らしが待っている。
学校の担任との3者面談でも、母は担任を圧倒していた。私が喋る時間は与えられなかった。周りの堀を埋められる如く逃げ場が無くなっていった。
そして、今までに掛けた時間--サンクコスト--が私を圧迫した。私立に行く必要がなければ、勉強は最低限しかしなかっただろうし、もっとカースト上位の部活で楽しくやってたかもしれない。成績下位の人間に私は「貧乏で大学に行く金ないくせに、毎日何で勉強してるの?w」と聞かれる。バカにしているのかは分からないが、舐められていると感じていた。だから、歯学部に行かなければ全てが無駄になる、そんな思いもあった。

部活は写真部だったが、たまに化学部にも顔を出した。そこの人に進路の悩みを相談したら「親とよく話し合ったら?」と言われた。これは、家族問題(毒親)あるあるだが、親と話し合う事自体が出来ないから問題になっているのだ。話し合いが出来れば、そもそも問題は生じない。母は、テロリストなのだ。交渉の余地は無い。

そこで話した生徒とは今までクラスメイトだった事も、存在すら知らなかった。彼は理科の先生になるのが夢だった。それが彼と話した最初で最後の日だった。
理工学部に興味を出す為にも、化学部の部室に行った。面白かったが、これをやりたい!とまではいかなかった。

 

結局…
同級生の、薬学部志望の生徒に相談した。「親が言うから、行くのは違うんじゃない?」と言われた。正論だった
そんなに仲が良いわけじゃない女生徒にも軽く聞いた
「大学に行くか迷ってる??贅沢な悩みだね笑」
と言われ、話はそこで終わった。他人からすれば、大学に行ける成績があるのは絶対的な善なんだろう
そして、親が歯科医師で家業を継ぐため歯学部を目指している違う学校の生徒に、自分は歯科医師になりたくないと相談された。胸が痛く、罪悪感に包まれ、自分の悩みは打ち明けられなかった
大学に行くかを決める期限が迫っていた。大学に行ってから、合わなければ中退すれば良いという考えが頭の中を駆け巡っていた。自分を無理やり説得していた
結局、大学に行く意味は見当たらなかった
勉強のスランプも起きつつあったが、良くも悪くも成績は落ちなかった
そして、卒業式で同級生にバカにされた
「貧乏人は頭良くても大学に行けなくて可哀想だな。精々頑張れよ」
と。それも、裏口入学で大学合格が決まった奴らだ。よく覚えている

母親との信頼関係は0になった、いや元々0だったからフリ切って−5000ぐらいになったという方が正しい
最終的に、私は自分の進路について考える事を先延ばしにし、束の間の安息を得た
父も私の進路がようやく決まった事で、安心した。しかし、それが泥沼の戦争の始まりとは誰も知る由がなかった