平成の太宰治

本業の傍ら、個人事業/完全報酬がコンセプトの結婚相談所を運営しています ニックネーム「平成の太宰治」の由来は、 平成生まれで、人間失格だから、です。

ばあちゃん、ゴメン。自慢の孫になれなかったから、もう会わない 〜エピローグ〜

 精神的な母を殺す


最初は、題名を「母さん、死んでくれ〜」としていたが、物騒だから辞める事にした

ユング心理学の中には母親殺しという表現が出てくる。人間が心理的に成長するために、乗り越えなければいけないもののようだ。母親殺し=母離れだ。世界各国の神話や民話にも登場するエピソードだという


童話・昔話・神話を介して集合無意識が伝えるメッセージには『建設的・肯定的なもの』もあれば『破壊的・否定的なもの』もあり、その二面性や両義性がもっとも象徴的に反映される元型が『グレートマザー(太母)』だ


「無条件で愛を与え、守ってくれる」「受け入れてくれる」といった一般的に言われる"母親"のイメージの他に、「束縛する」「飲み込んでしまう」といったネガティブなイメージも内包している

仏教神話においても小さな子供を捕まえて食べてしまう恐ろしい悪鬼のような『鬼子母神』は、仏教の菩提心の教えを受け入れることによって子供を慈しんで優しく守る女神の『訶梨帝母』へと変化する。これもまた、人類に概ね共通する所のあるグレートマザーの元型の明るさと暗さの二面性をダイナミックに示した物語だと河合隼雄は指摘する

 


私の場合、母とは一生分かり合えないのは言うまでもない。彼女は自分が犯した罪(離婚・不倫・10年以上もの間、母親本人と不倫相手と私を同居させ、毎日のように私を精神的に虐待した)を償うどころか、その事実に目を向けようともしない。数年前に不倫相手は出て行ったが、母親と職場が同じらしく、たびたび我が家の駐車場に現れる。毎月3万もの金を請求されるのも不満だ。そのくせ、私が失業して金に困っても2万しかくれない。税金も払わない。助け合うという概念が一切ない。今まで私が親に渡した額は200万を悠に超える。それでこのザマか。毎日ブラック企業で働いて、少しの間休職するというのが悪いのか。これ以上一緒に住んでいると息がつまりそうだ。近々、実家を出る予定だ。言っておくが、私が出て行ったからといって、その不倫相手と籍を入れるようなことがあれば私は母親と縁を切る。精神的に楽になりたいのかもしれない


•この記事は、誰に向いて書いたのか
全ての記事を読むのは大変だ。
ここまで書いて読む人がいるのだろうか?その時、古賀史健さんの「文章読本」を思い出した。文章のターゲットは身近な人、親が読める文章を書く、友人に、そして一番は10年前の自分--高校生だ--に書け、と
10年前の自分なら食い入る様に見るだろうと思い、無駄な部分は省きながらもこれから自分に起こるであろう事を書き記した。10年前の自分に手紙を綴った気分だ
10年前の自分に今の状況を知らせたらどうなるのだろう
多分、母親を恨むことに変わりはないと思う
 


•家を出たい
家を出たい。個人事業を始めたは良いが、売上はない。再就職先は、またタクシー会社だ。
給料が安定するまでの、1~2ヶ月間定住出来る場所を探している(1〜2ヶ月で安定するかは分からないが)
ただ、お金がないので、高い家賃を払う事は申し訳ないが難しい。

 


無期懲役
群馬に住む祖父母とは随分と疎遠になってしまった。小さい頃は毎年遊びに行った。ばあちゃん子だったらしく、幼少期に泣いた時はばあちゃんがあやすとすぐに泣き止んだらしい。
最後に会ったのは社会人になる前の2014年1月。しかし、それ以前に既に祖父母は呆れていたに違いない。高校を卒業(2012年3月)を境に、明らかに2人の態度は変わったと思う。昨年、手紙を出したが返事はなかった。
高校卒業して、無期懲役が決まった。
もし今後、普通の大学を卒業したら仮釈放、医者か歯医者になれたら晴れて出所。宝くじで何億か当たらない限り、出所はできないだろう。
刑務所に入る前の私の言葉を以下に記載する。

「私は、身内から批判を受けることにはなんの不満もありません。結果を見れば当然ですし、大学にも行かず、地位の高い仕事に就くこともできず、私は一生かかっても償えない罪だという深い罪悪感を持っています。大学に行かなかったことによってたくさんの方の期待を裏切り、辛い思いをさせました。無論、無実でもありません。ですからそれを責め続けられることに不満はない」

奇しくも、コロナウイルスにより自粛を強いられ暗い雰囲気が漂っている今は、終戦前と似たような雰囲気なのだろうか

•社会人7年目
7年目の3月に転職した。運転手からサラリーマンになった。7年目にして初めてスーツを着て働けるのは嬉しかった。しかし入社して1週間も経つと行きたくなくなり、どうしようもなかった。
ただ、それでも会社には行った。無遅刻無欠勤だった。特段、褒められる事はないが。
3月半ばからは、パソコンの実習があった。基本的に全て理解不能だった。
ほとんどの先生は優しかった。懇切丁寧に、教えてくれる。レポートも業務が忙しい中丁寧に添削される。この会社で一生働くことはないにも関わらず、時間を奪う罪悪感に満ちていた
「自分がいなければ、この会社に入りたい人が入れた」

•色々疲れた…
プライベートでは、人と会っても意味が無いと思った。お金も無く、家に引きこもった
精神的不調は自覚していた。人生が楽しくない事は社会人になる前、いや、中学頃からそんなに変わりはなかった。運動や食事、瞑想、カウンセリング、精神科など鬱な気分を解消する方法は幾らでもあっただろう。だが、ブログに自分の過去を書いて公開するぐらいしか、気持ちをスッキリさせる手段が見当たらなかった。
コロナウイルスの影響でAKB48のイベントは全て中止。仕事がある日は外へは出ていたが、基本は家にいた。家にいてもテレビやYouTubeで動画を見る気にもならなかった。ただ暇な時間を暇なまま消費していた。暇は苦痛で、昼まで寝たり、医療行為もできないのに医学書を読んでいた。
本やインターネットでインプットするのも飽きた。情報過多で、アウトプットが無ければ何の意味も無い。
お洒落にも気を使わなくなった。


•友達に会うのも億劫になった
「何をしているの?」と聞かれて「何もしてないよ」と答えるしかなかったから。良い人生を歩んでる人なら、問題は無い。私の場合、医者や歯医者になれず人生が何も面白くないから、仕事ついて聞かれたくなかった。
寧ろ何もしていないから、人と会っても話す事は無かった。初めて会う人なら過去にあった面白いことを話せばいいが…どんどん人に会わなくなっていった
4月上旬に会社を辞めてからは、バイトは知り合いのツテで、家庭教師をしたり誰でも出来る簡単な作業をしていた。そもそもお金に対する執着心が薄かった。この7年間、あまり稼いでいない。稼ぎたくないというわけではない。誰しも、給料は高い方が良いに決まってる。恵まれていると言えばそうだ。良い事なんだろう。それ故、欲しい物も無かったから、毎月最低10万あれば生きていけた

仕事から帰宅して、「何をやっているんだろう」と自分の部屋で泣いた。自分が情けなかったし、仕事を辞めたくても辞められない。お金と時間をドブに捨てているが、何も出来ない自分が悔しかった。


そんな中、Twitterのフォロワーの40代おじさんが医学部を目指すという話を聞いた。
結果は不合格だったそうだが、私の励みになったのでよく覚えている。
どさくさに紛れて再受験したいと父に言ったら、何て言われるだろうか。現実を見ろ、と言うだろうか。普段の生活で父とLINEのメッセージを交わしていたので、思い切って聞いてみることにした。電話なら、殴られないと思った。
けれど、再受験が許されないことは分かっていた。

•2回目の屈辱
金のことなど気にしなくていい。親はあなたが何か目的や願望に目覚めて必死に努力する様にいくらでもかけられるからです。
再受験のことをYahoo知恵袋で相談したら、こんな回答がきた。加えて、父にLINEで「今からでも遅くない」と言われていた。正直、この言葉に油断していた。少しぐらい期待しても大丈夫かなと自分の中でも高を括っていた

戦争で言えば、原爆が落とされた状況に近い。もう(戦争終結)間近だった。後は、いつ戦争をやめるかだけだ。そのデザインが出来なかった。私は医者になれない(戦争に勝てない)事は分かっていただろうが、現実を受け止める事は出来なかった

そして父と電話で話した。「現状の自分の力量をよく把握して、やり方によっては、合格圏内の可能性が充分ある、という状況であれば、応援する側も、なんとかしてあげたいと思う。全くゼロに近い状況なんだけど、チャレンジさせて欲しい、資金だけ準備して貰えるか?だけでは、手遅れだ」
的なことを言われたと思う。
普通に考えて独学で合格圏内(偏差値65くらいだろうか)にもっていくのは無理がある。それができるなら予備校というもの自体いらなくなる。
第一に、予備校通っても落ちる人の方が多い。
加えて言うと、予備校に通うのも資金援助がなければ無理である。私は父のように年収1000万も稼いでない。父の年収の4分の1しかないワーキングプアだ。今や歯科医師も5人に1人が年収300万以下だから、恥じることではない。年収や職業は見た目ではわからないから、私生活でも婚活でも、「自分は医師だ」と名乗ることはできる。

話は逸れたが、日々の生活で精一杯の私には土台無理な話だった。しかし父にも人生がある。強要することはできない。
「もう無理なんだな…」仕事も軌道に乗らない上、再受験の夢も消えた。
そこから何分か話を聞いたが、うわの空だった。何を言われたかは記憶にない。
私は他人の気持ちがわからない。
何で金を出さないくせに「まだ遅くない」とか期待させるようなことを言うのだろうか。何で手取り年収1000万もあるのに金を出す気がないのだろうか。
もちろん、それは父の金だ。父が自分の自由に使えば良い。
なら最初から、冗談でも期待させるようなこと言うべきではない。
「いい加減、現実を見ろ」
その一言で終わりにすれば良いじゃないか。
その方がいっそのこと諦めがつく。
仮に私が今、偏差値65くらいあっても金は出さないんだろうから。
どちらにしても今の精神状態では勉強に身が入らないかもしれないが。
昨年の父の日に和解できたと思ったが私の勘違いだったのかもしれない。


一通り話し終えた後に不動産営業を継ぐことを勧められた。営業に向いてる・向いてない以前に無理なのだが、話すと長くなるからその時は言わなかった。
もちろん、不動産営業に全く興味がないというわけではない。転職活動した際に、何社か不動産会社の面接も受けてみた。どこも不採用だった。もし採用されていたら、将来のこともよく考えずに入社しただろう。
私は21歳頃から日光過敏症(紫外線アレルギー)になってしまい、外出時に日焼け止めや日傘などの紫外線対策が欠かせなくなってしまった。外出時には暑くても半袖の服を着られない。不動産営業は外回りもあるだろうし、運転してお客さんを案内することもあるだろう。
では、なぜ私は運転手の仕事ができたのか。まず、そんなに長く続けるつもりはなく、最初は腰掛け程度にしか考えていなかった。
だが、3年半も続いた。理由は楽だったからだ。皆で机を並べて仕事するわけではなく、仕事中は1人だ。
たまには変な客もいたが、たった1度きりの付き合いだから、すぐに切り替えられた。
紫外線に直接当たれないので、運転時にはなるべく肌が露出しないように制服のワイシャツは長袖を着て手袋、大きめのマスク、サングラスを装着する。100%は防げないが、対策は万全だった。仕事より紫外線対策が面倒だった。
嫌だったのは、社会的地位が著しく低いことと完全歩合制で安定しない給料。1番酷い時は手取り12万の月もあった。言うまでもなく、昇給・賞与はない。
人間関係には恵まれたが、年明けに転職が決まり、運転手を辞めた。人を轢くのが怖いから、もう運転はしたくない。
だから、不動産営業を継ぐことはできない。
やれるとしたら、営業でなく事務だろう。

長くなってしまったが、父と電話した後、
医師兼、医学部受験塾講師の細井先生に「せっかく相談に乗ってもらったのに申し訳ない」と謝った。
「残念です…」としか言われなかった。そりゃそうだ。
普通の大学なら学費もそれほどかからないし、なんとか自分で払えるから、四大卒になって満足しよう。毎日そう自分に言い聞かせる。
正直、一生後悔するだろうし、ずっと自分を否定して生きていくのかなと思っている。自分があまりに酷い人生を歩んできたので、他人の痛みや悩みを聞いて共感してあげられるのが強みかと思う。精神科学が好きなので、心理カウンセラーが良いのかなと思うが、その仕事をしている自分を想像できない。
他人と向き合ってない生活が長いので、実際に現場に出たらどうなることか。独学で知識だけは身に付いたが、現場に出て自分が活躍できたり、患者さんとうまく話せる自信はあまりない。

現在、私は起業(といっても収入はまだない)した後、前に勤務していたタクシー会社に復帰した。先のことはわからない。長続きする保証はないから、リスクヘッジも兼ねて起業したのだ。医者と歯医者以外に価値を見出せる職業は(私にとっては)無い。他にやりたい仕事はない。大した資格もないので、やれる仕事も限られてくる。これだけは言えるが、言うまでもなく私は一生、出所はできない。刑務所生活は死ぬまで続くのだ。


だから、父さん、私を「自慢の子」なんて言うのは、もうやめてほしい。自分は微塵もそんなふうに思わない。
この分際で自慢と言われても全く嬉しくない。

ばあちゃん、じいちゃん、叔父さん、ごめん。

身内の全ての人に謝罪したい。 
慰めの言葉などいらない。
責めてほしい。
「お前は社会のゴミだ。二度と面見せるな」
それくらい罵るべきだ。

母には、もしこのブログを見ているなら、反省してほしい。
(いや、今更しても遅いけど)


本ブログは、10年以上もの長い間、屈辱に塗れた私の人生をありのままに記した。読者の皆さんには私のような残酷な人生を歩まないようになってほしい。これを読んで離婚を考えている保護者の方々が踏みとどまってくれれば、幸いだ。


正直、貯金はほとんど無い。10万円は無い。だから、家を借りることもできない。

これから、仕事をしてお金を稼いでいく事が1番重要だ。だが、この記事を読んで面白いと思ったり、私のクズ人生を踏み台にして誰かが困難を乗り越えることができたなら、それは私が生きてて初めて役に立ったということだから、嬉しい。

 

•最後に
コロナウイルスの影響で、世界が混沌に包まれている。
その中で、この様な話はそもそも公開するべきじゃないのかもしれない。だが、しないと前に進めない。皆に隠し事をしているのが、腑に落ちないんだろう。
そして私は、今までの人生から何を求められているのか。
大学も卒業せず生きている事は、無駄で最悪な事に思える。だが、この現象に良いも悪いも本来は無い。これに意味づけが出来るのは自分だけだ。
出来る事から、少しずつ始める。
そして、今1番欲しいものは、誰にも干渉されることのない"自由な生活"なのかもしれない
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。


令和2年9月 平成の太宰治