平成の太宰治

本業の傍ら、個人事業/完全報酬がコンセプトの結婚相談所を運営しています ニックネーム「平成の太宰治」の由来は、 平成生まれで、人間失格だから、です。

ばあちゃん、ゴメン。自慢の孫になれなかったから、もう会わない 〜エピローグ〜

 精神的な母を殺す


最初は、題名を「母さん、死んでくれ〜」としていたが、物騒だから辞める事にした

ユング心理学の中には母親殺しという表現が出てくる。人間が心理的に成長するために、乗り越えなければいけないもののようだ。母親殺し=母離れだ。世界各国の神話や民話にも登場するエピソードだという


童話・昔話・神話を介して集合無意識が伝えるメッセージには『建設的・肯定的なもの』もあれば『破壊的・否定的なもの』もあり、その二面性や両義性がもっとも象徴的に反映される元型が『グレートマザー(太母)』だ


「無条件で愛を与え、守ってくれる」「受け入れてくれる」といった一般的に言われる"母親"のイメージの他に、「束縛する」「飲み込んでしまう」といったネガティブなイメージも内包している

仏教神話においても小さな子供を捕まえて食べてしまう恐ろしい悪鬼のような『鬼子母神』は、仏教の菩提心の教えを受け入れることによって子供を慈しんで優しく守る女神の『訶梨帝母』へと変化する。これもまた、人類に概ね共通する所のあるグレートマザーの元型の明るさと暗さの二面性をダイナミックに示した物語だと河合隼雄は指摘する

 


私の場合、母とは一生分かり合えないのは言うまでもない。彼女は自分が犯した罪(離婚・不倫・10年以上もの間、母親本人と不倫相手と私を同居させ、毎日のように私を精神的に虐待した)を償うどころか、その事実に目を向けようともしない。数年前に不倫相手は出て行ったが、母親と職場が同じらしく、たびたび我が家の駐車場に現れる。毎月3万もの金を請求されるのも不満だ。そのくせ、私が失業して金に困っても2万しかくれない。税金も払わない。助け合うという概念が一切ない。今まで私が親に渡した額は200万を悠に超える。それでこのザマか。毎日ブラック企業で働いて、少しの間休職するというのが悪いのか。これ以上一緒に住んでいると息がつまりそうだ。近々、実家を出る予定だ。言っておくが、私が出て行ったからといって、その不倫相手と籍を入れるようなことがあれば私は母親と縁を切る。精神的に楽になりたいのかもしれない


•この記事は、誰に向いて書いたのか
全ての記事を読むのは大変だ。
ここまで書いて読む人がいるのだろうか?その時、古賀史健さんの「文章読本」を思い出した。文章のターゲットは身近な人、親が読める文章を書く、友人に、そして一番は10年前の自分--高校生だ--に書け、と
10年前の自分なら食い入る様に見るだろうと思い、無駄な部分は省きながらもこれから自分に起こるであろう事を書き記した。10年前の自分に手紙を綴った気分だ
10年前の自分に今の状況を知らせたらどうなるのだろう
多分、母親を恨むことに変わりはないと思う
 


•家を出たい
家を出たい。個人事業を始めたは良いが、売上はない。再就職先は、またタクシー会社だ。
給料が安定するまでの、1~2ヶ月間定住出来る場所を探している(1〜2ヶ月で安定するかは分からないが)
ただ、お金がないので、高い家賃を払う事は申し訳ないが難しい。

 


無期懲役
群馬に住む祖父母とは随分と疎遠になってしまった。小さい頃は毎年遊びに行った。ばあちゃん子だったらしく、幼少期に泣いた時はばあちゃんがあやすとすぐに泣き止んだらしい。
最後に会ったのは社会人になる前の2014年1月。しかし、それ以前に既に祖父母は呆れていたに違いない。高校を卒業(2012年3月)を境に、明らかに2人の態度は変わったと思う。昨年、手紙を出したが返事はなかった。
高校卒業して、無期懲役が決まった。
もし今後、普通の大学を卒業したら仮釈放、医者か歯医者になれたら晴れて出所。宝くじで何億か当たらない限り、出所はできないだろう。
刑務所に入る前の私の言葉を以下に記載する。

「私は、身内から批判を受けることにはなんの不満もありません。結果を見れば当然ですし、大学にも行かず、地位の高い仕事に就くこともできず、私は一生かかっても償えない罪だという深い罪悪感を持っています。大学に行かなかったことによってたくさんの方の期待を裏切り、辛い思いをさせました。無論、無実でもありません。ですからそれを責め続けられることに不満はない」

奇しくも、コロナウイルスにより自粛を強いられ暗い雰囲気が漂っている今は、終戦前と似たような雰囲気なのだろうか

•社会人7年目
7年目の3月に転職した。運転手からサラリーマンになった。7年目にして初めてスーツを着て働けるのは嬉しかった。しかし入社して1週間も経つと行きたくなくなり、どうしようもなかった。
ただ、それでも会社には行った。無遅刻無欠勤だった。特段、褒められる事はないが。
3月半ばからは、パソコンの実習があった。基本的に全て理解不能だった。
ほとんどの先生は優しかった。懇切丁寧に、教えてくれる。レポートも業務が忙しい中丁寧に添削される。この会社で一生働くことはないにも関わらず、時間を奪う罪悪感に満ちていた
「自分がいなければ、この会社に入りたい人が入れた」

•色々疲れた…
プライベートでは、人と会っても意味が無いと思った。お金も無く、家に引きこもった
精神的不調は自覚していた。人生が楽しくない事は社会人になる前、いや、中学頃からそんなに変わりはなかった。運動や食事、瞑想、カウンセリング、精神科など鬱な気分を解消する方法は幾らでもあっただろう。だが、ブログに自分の過去を書いて公開するぐらいしか、気持ちをスッキリさせる手段が見当たらなかった。
コロナウイルスの影響でAKB48のイベントは全て中止。仕事がある日は外へは出ていたが、基本は家にいた。家にいてもテレビやYouTubeで動画を見る気にもならなかった。ただ暇な時間を暇なまま消費していた。暇は苦痛で、昼まで寝たり、医療行為もできないのに医学書を読んでいた。
本やインターネットでインプットするのも飽きた。情報過多で、アウトプットが無ければ何の意味も無い。
お洒落にも気を使わなくなった。


•友達に会うのも億劫になった
「何をしているの?」と聞かれて「何もしてないよ」と答えるしかなかったから。良い人生を歩んでる人なら、問題は無い。私の場合、医者や歯医者になれず人生が何も面白くないから、仕事ついて聞かれたくなかった。
寧ろ何もしていないから、人と会っても話す事は無かった。初めて会う人なら過去にあった面白いことを話せばいいが…どんどん人に会わなくなっていった
4月上旬に会社を辞めてからは、バイトは知り合いのツテで、家庭教師をしたり誰でも出来る簡単な作業をしていた。そもそもお金に対する執着心が薄かった。この7年間、あまり稼いでいない。稼ぎたくないというわけではない。誰しも、給料は高い方が良いに決まってる。恵まれていると言えばそうだ。良い事なんだろう。それ故、欲しい物も無かったから、毎月最低10万あれば生きていけた

仕事から帰宅して、「何をやっているんだろう」と自分の部屋で泣いた。自分が情けなかったし、仕事を辞めたくても辞められない。お金と時間をドブに捨てているが、何も出来ない自分が悔しかった。


そんな中、Twitterのフォロワーの40代おじさんが医学部を目指すという話を聞いた。
結果は不合格だったそうだが、私の励みになったのでよく覚えている。
どさくさに紛れて再受験したいと父に言ったら、何て言われるだろうか。現実を見ろ、と言うだろうか。普段の生活で父とLINEのメッセージを交わしていたので、思い切って聞いてみることにした。電話なら、殴られないと思った。
けれど、再受験が許されないことは分かっていた。

•2回目の屈辱
金のことなど気にしなくていい。親はあなたが何か目的や願望に目覚めて必死に努力する様にいくらでもかけられるからです。
再受験のことをYahoo知恵袋で相談したら、こんな回答がきた。加えて、父にLINEで「今からでも遅くない」と言われていた。正直、この言葉に油断していた。少しぐらい期待しても大丈夫かなと自分の中でも高を括っていた

戦争で言えば、原爆が落とされた状況に近い。もう(戦争終結)間近だった。後は、いつ戦争をやめるかだけだ。そのデザインが出来なかった。私は医者になれない(戦争に勝てない)事は分かっていただろうが、現実を受け止める事は出来なかった

そして父と電話で話した。「現状の自分の力量をよく把握して、やり方によっては、合格圏内の可能性が充分ある、という状況であれば、応援する側も、なんとかしてあげたいと思う。全くゼロに近い状況なんだけど、チャレンジさせて欲しい、資金だけ準備して貰えるか?だけでは、手遅れだ」
的なことを言われたと思う。
普通に考えて独学で合格圏内(偏差値65くらいだろうか)にもっていくのは無理がある。それができるなら予備校というもの自体いらなくなる。
第一に、予備校通っても落ちる人の方が多い。
加えて言うと、予備校に通うのも資金援助がなければ無理である。私は父のように年収1000万も稼いでない。父の年収の4分の1しかないワーキングプアだ。今や歯科医師も5人に1人が年収300万以下だから、恥じることではない。年収や職業は見た目ではわからないから、私生活でも婚活でも、「自分は医師だ」と名乗ることはできる。

話は逸れたが、日々の生活で精一杯の私には土台無理な話だった。しかし父にも人生がある。強要することはできない。
「もう無理なんだな…」仕事も軌道に乗らない上、再受験の夢も消えた。
そこから何分か話を聞いたが、うわの空だった。何を言われたかは記憶にない。
私は他人の気持ちがわからない。
何で金を出さないくせに「まだ遅くない」とか期待させるようなことを言うのだろうか。何で手取り年収1000万もあるのに金を出す気がないのだろうか。
もちろん、それは父の金だ。父が自分の自由に使えば良い。
なら最初から、冗談でも期待させるようなこと言うべきではない。
「いい加減、現実を見ろ」
その一言で終わりにすれば良いじゃないか。
その方がいっそのこと諦めがつく。
仮に私が今、偏差値65くらいあっても金は出さないんだろうから。
どちらにしても今の精神状態では勉強に身が入らないかもしれないが。
昨年の父の日に和解できたと思ったが私の勘違いだったのかもしれない。


一通り話し終えた後に不動産営業を継ぐことを勧められた。営業に向いてる・向いてない以前に無理なのだが、話すと長くなるからその時は言わなかった。
もちろん、不動産営業に全く興味がないというわけではない。転職活動した際に、何社か不動産会社の面接も受けてみた。どこも不採用だった。もし採用されていたら、将来のこともよく考えずに入社しただろう。
私は21歳頃から日光過敏症(紫外線アレルギー)になってしまい、外出時に日焼け止めや日傘などの紫外線対策が欠かせなくなってしまった。外出時には暑くても半袖の服を着られない。不動産営業は外回りもあるだろうし、運転してお客さんを案内することもあるだろう。
では、なぜ私は運転手の仕事ができたのか。まず、そんなに長く続けるつもりはなく、最初は腰掛け程度にしか考えていなかった。
だが、3年半も続いた。理由は楽だったからだ。皆で机を並べて仕事するわけではなく、仕事中は1人だ。
たまには変な客もいたが、たった1度きりの付き合いだから、すぐに切り替えられた。
紫外線に直接当たれないので、運転時にはなるべく肌が露出しないように制服のワイシャツは長袖を着て手袋、大きめのマスク、サングラスを装着する。100%は防げないが、対策は万全だった。仕事より紫外線対策が面倒だった。
嫌だったのは、社会的地位が著しく低いことと完全歩合制で安定しない給料。1番酷い時は手取り12万の月もあった。言うまでもなく、昇給・賞与はない。
人間関係には恵まれたが、年明けに転職が決まり、運転手を辞めた。人を轢くのが怖いから、もう運転はしたくない。
だから、不動産営業を継ぐことはできない。
やれるとしたら、営業でなく事務だろう。

長くなってしまったが、父と電話した後、
医師兼、医学部受験塾講師の細井先生に「せっかく相談に乗ってもらったのに申し訳ない」と謝った。
「残念です…」としか言われなかった。そりゃそうだ。
普通の大学なら学費もそれほどかからないし、なんとか自分で払えるから、四大卒になって満足しよう。毎日そう自分に言い聞かせる。
正直、一生後悔するだろうし、ずっと自分を否定して生きていくのかなと思っている。自分があまりに酷い人生を歩んできたので、他人の痛みや悩みを聞いて共感してあげられるのが強みかと思う。精神科学が好きなので、心理カウンセラーが良いのかなと思うが、その仕事をしている自分を想像できない。
他人と向き合ってない生活が長いので、実際に現場に出たらどうなることか。独学で知識だけは身に付いたが、現場に出て自分が活躍できたり、患者さんとうまく話せる自信はあまりない。

現在、私は起業(といっても収入はまだない)した後、前に勤務していたタクシー会社に復帰した。先のことはわからない。長続きする保証はないから、リスクヘッジも兼ねて起業したのだ。医者と歯医者以外に価値を見出せる職業は(私にとっては)無い。他にやりたい仕事はない。大した資格もないので、やれる仕事も限られてくる。これだけは言えるが、言うまでもなく私は一生、出所はできない。刑務所生活は死ぬまで続くのだ。


だから、父さん、私を「自慢の子」なんて言うのは、もうやめてほしい。自分は微塵もそんなふうに思わない。
この分際で自慢と言われても全く嬉しくない。

ばあちゃん、じいちゃん、叔父さん、ごめん。

身内の全ての人に謝罪したい。 
慰めの言葉などいらない。
責めてほしい。
「お前は社会のゴミだ。二度と面見せるな」
それくらい罵るべきだ。

母には、もしこのブログを見ているなら、反省してほしい。
(いや、今更しても遅いけど)


本ブログは、10年以上もの長い間、屈辱に塗れた私の人生をありのままに記した。読者の皆さんには私のような残酷な人生を歩まないようになってほしい。これを読んで離婚を考えている保護者の方々が踏みとどまってくれれば、幸いだ。


正直、貯金はほとんど無い。10万円は無い。だから、家を借りることもできない。

これから、仕事をしてお金を稼いでいく事が1番重要だ。だが、この記事を読んで面白いと思ったり、私のクズ人生を踏み台にして誰かが困難を乗り越えることができたなら、それは私が生きてて初めて役に立ったということだから、嬉しい。

 

•最後に
コロナウイルスの影響で、世界が混沌に包まれている。
その中で、この様な話はそもそも公開するべきじゃないのかもしれない。だが、しないと前に進めない。皆に隠し事をしているのが、腑に落ちないんだろう。
そして私は、今までの人生から何を求められているのか。
大学も卒業せず生きている事は、無駄で最悪な事に思える。だが、この現象に良いも悪いも本来は無い。これに意味づけが出来るのは自分だけだ。
出来る事から、少しずつ始める。
そして、今1番欲しいものは、誰にも干渉されることのない"自由な生活"なのかもしれない
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。


令和2年9月 平成の太宰治

新人研修とインパール作戦

インパール作戦それは、日本軍がインパールイギリス領インド帝国北東部の都市)攻略を目指すが、誰1人辿り着けず3万人が死んだ作戦 

撤退路は、白骨街道と呼ばれる(出典:wikipedia インパール作戦

会社の研修をインパール作戦と同様に扱う事は、いささか誇大的妄想に近い(と自分でも思う)

だが、中高の学校生活・仕事を一度も休まなかった私が、仕事へ行くのが億劫で1日中起き上がれない事は初めてだった

 


•新人研修が始まる
新人研修は、1ヶ月に色々なことを学ぶ。
職場見学・講義・レポート・プレゼン・パソコン実習(Excel、Word、PowerPointLinuxなど)・早朝のミーティングなどをやり、忙しい。普通のサラリーマンの10倍はハードだと思う。
最初の週は、一番厳しい(と噂の)実習だった。
担当の先生に開口一番「なんでこの業界に来たんだ?」と聞かれた
口をつぐんだ。何も答えられなかった
会社があまりにも遠いので、近くに家を借りたいくらいだったが、お金がないので片道1時間以上かけて電車通勤するしかなかった。レポートは毎日1枚書き、退社する時に提出、職場の見学と色々な事をこなしていた。
そこまでは良かったが、最後の口頭試問でつまずいた。勉強する気が出なかった
指定の教科書を見ても難しくて何も頭に入ってこなかった。動画授業を眺めるだけ。何も覚えなかった
そのまま試験に突入した
全ての質問に、答えられない
「再試だ。1週間後に来い」
また試問を受ける事になった。それもダメだった。また呼ばれた。またダメ。自分から日程を送らないといけないが、それのメールすら送れなくなった
レポートも合格していないので、書き直そうと思ったが、やる気が出なくて書かなかった。もうやりたくなさすぎて仕方がなかった。そりゃそうだ。サラリーマンになれたとはいえ、全然やりたい仕事じゃない。医者でも、歯医者でもない。誰かの役に立つ仕事ではない。

その後の研修では、採用担当者とカウンセリングをした。あまりにもやる気が無さそうだったからだろう(中学頃から、元々やる気が無さそうな事を指摘されていた)また、講師に質問をされてあまりにも答えられなさすぎて「こんなに分からない研修生は、初めてだ」と言われた。精神的ショックが大きかった


研修は理解不能なものもあったり、わかりやすいものもあったりと、気分にムラがあった。レポートを出していなかったり、課題を途中で投げ出すなど平均的研修生に比べればクオリティは圧倒的に低かった
朝に起き上がれない日が出てきた
なんて連絡しよう
風邪だと言って休むか
それはズル休みだしな
病院に行って、偽の診断書を作ってもらうか
いや、虚偽は良くないか…
微妙な真面目さと無駄な正義感が頭の中を駆け巡った
うつ病だったかもしれないから(今もだが)、精神科に行けば良かったんだろう
ただ、連絡も無しに休めばどんな事情があろうとも関係ない。怠惰な研修生だと認識される。だが、自分の事情を話せなかった

4月に配属先の研修が始まった。担当したのは、地下倉庫で荷物の仕分け。最初にやったパソコン実習の意味があったのか疑問に感じた。おまけに、重い荷物を持ったせいですぐに腰痛になった。求人に書いてあった仕事内容とかけ離れていた。ここで堰を切った様に、次の日から研修を無断欠席した。一度研修を休むと、止まらなかった。態度も悪かったらしい。朝の会議が5分経った所で貧乏ゆすりが始まった。全ての仕事内容が何も理解できず、体が早くここから逃げ出したいという反応だった
家でも泣いた。自分が何をやっているのか、分からなくなっていた
研修は"普通に"やっていれば大丈夫と言われた。私の"普通"は、皆の"普通"では無かった
退職届を出して、帰路につく際に今までのドン底人生がフラッシュバックした

3回目の失業が決定した

失業者とバシー海峡

バシー海峡

それは、太平洋戦争時、南東諸島に兵員や物資などを補給するための航路

 

太平洋戦争時にはヒ船団やミ船団等の石油輸送船団、フィリピンへの増援輸送船団など、日本の重要輸送船団が多く航行していたことから、アメリカ海軍によって「コンボイ・カレッジ」(英語: Convoy College;船団大学)とあだ名され、潜水艦部隊の格好の作戦場と見なされた[1]。そのため、戦争後半にはアメリカ海軍の潜水艦が多数配置されて通商破壊に従事し、多くの日本輸送船を沈めたことから「輸送船の墓場」と呼ばれた 

出典: wikipedia バシー海峡


 

 

食糧や弾薬の補給として重要だが、アメリカに多数の輸送船が沈められたという


船員たちは広さが1畳のスペースに7人が押し込まれていた(アウシュビッツ収容所より劣悪な環境)

 


私が人生をやり直す事は、半ば厳しくなっていた。だが、決められた作戦を途中で逃げ出すわけにはいかない

やりたくもない仕事をすることで、多大な時間とお金が散っていった。それが、バシー海峡で多大な損害が出た事とリンクしたのかもしれない

 

 

•社会人2年目(失業1回目)
失業は、初めての経験だった
会社を辞めるのは次の就職先を決めてから辞めるという約束だった。仕事を辞め、給料がなくなっても月に3万もの寄付金を払い続けた。私のために蓄えられるわけではなく、母の金になるという形だ。私には寄付金を払うという発想が無かった。話し合いはほとんど無いまま寄付金を払った。恩恵を受けられるかは分からなかった

大学を出ていないとどうしてもブラック企業に入るか、誰もがやりたがらない仕事(介護や運転手など)という選択肢しか無い。高校の同級生は全員が大学卒か大学院卒である(中には中退者もいる)。ブラック企業以外の道は、非正規雇用や専業主婦だ。結婚もできない私に専業主婦は無理だった
自分はそもそも仕事への興味関心が薄かった。プライベートではコミュニティが無く、知り合いも少なかった。アイドルのイベントに参加するうちに友達(というより知り合い)は増えたが、相談は出来なかった。そもそも、大学を出てないと言う事すら恥ずかしかった。なので本当のことは言わなかった。
医大生だと言うと「お金持ちなんでしょ?良いな〜笑」という反応もあった。テキトーに受け流していたが、「死のうか悩んでいます」とは言えない
カウンセリングに行くという発想もなかった

9月に仕事を辞めた後は2ヶ月無職だった。12月からコンビニのバイトをしながら、医学の勉強は継続し、屈辱的な生活を送っていた。
バイトは初めての接客業だったが、なんとか年末年始を無事にやり過ごし、2016年になった

•社会人3年目(失業2回目)
引き続きバイトをしながら、医学書を読む毎日だった。目立った再就職活動はしていなかった。
2月に印象的だったことがある。女性が多い職場で言われた一言。「鈴木君はいつもやる気なさそうだよね」みたいに言われて、ショックだった。何も熱中してないし、この先、人生逆転はほぼ不可能な宙ぶらりん状態。女性の直感は鋭い
学業成績は良かったものの、自分には自信が無かった
「なんで働いてるの?」
という問いに「金のため」以外に適する答がわからない
聞かれるのが怖かった。
何も面白くなかった

2月末に契約延長か満了かという話があり、店長と面談した。バイトの面接の試験官が「人手が足りないので、絶対延長だよ〜笑」といった事を真に受けたのかもしれない。研修だから「まぁ、テキトウでいっか」という気持ちもあったんだろう
研修は不合格だった。そして、2回目の失業が決まった

•ブログを始める
失業した後は、バイトをしつつ悶々した日々を過ごしていた
再就職活動はしたが内定は0で、給料は10万なかった。
その頃、ブログを始めた(このブログではない)。タイトルは「人間失格」。なかなか好評だったようで、沢山の人が見てくれているようだ。
何か面白い事をしたいという思いもあった

•採用の通知が来ない
5月になっても再就職が決まらなくて、失業期間が長引いた。6月になっても声がかかることは無かった。
「これは、もうダメたな。失業手当受給ほぼ決定だ」
そう思った。ハローワークに行って失業手当として月10万もらった。たった10万だ。
そして
「次落ちたら、タクシー運転手になろう」
という思考が生まれた。周りに20代でタクシー運転手をやってる人間はいない。運転手は普通免許があり、事故歴がなければ誰でも採用だ。
受かる見込みのない採用試験を受けるだけお金と時間の無駄だった
もう疲れていた
楽しくない
面接官にバカにされる
何をやっているんだろう
まともに働きたくなかった
生きているのが嫌だった

タクシー会社の面接合格したとしても、8月にならないと勤務できなかった(タクシー運転手に必要な二種免許は普通免許取得から3年経ってないと受験資格を得られない、自分は2013年8月普通免許取得)
正直、大学に行ってない時点で人生逆転できる見込みは薄かったから、運転手になるのも本気ではなかった。腰掛け程度にやりながら、そのうち結婚できたらいいなと思っていた
8月になって、面接を受けた。ほとんど雑談で終わった。多分、合格かなーって
結果は採用、タクシー会社に入った。一応、正社員だ。
母親には言わなかった。なぜ言わなかったのかは言うまでもないだろう

結局、運転手を辞める直前まで母親にはバレなかった。ある日、免停直前を知らせる葉書が家に届き、それを見られてしまってバレたのだ。母親は驚いてた。複雑な気分だった。それがきっかけで運転手をやりながら、転職活動をした。再び多額の金を費やす事になる。そして、採用される保証・失業しない保証も無かった
また、タクシー会社の賃金体系にも不満だった。完全歩合制で、売上の半分が自分の給料となる。月に50万な売上なら、25万が総支給額。そこから税金や年金などを引かれて、手取り20万ちょっとだ。しかし、手取り20万を取れるのは年3回程度。年収にすると280万くらい。結婚など到底無理だった。


ブログはたまに記事を書いていたが、1月に受けた面接の前に燃え尽きた。下らない事をやるのに少し嫌気が差していた

一般企業の面接を受け、20社目くらいで
やっと、合格した。
理由はわからない。
それでも、受かったから嬉しかった。いや、ホッとしたという言い方が正しい
採用が決まり運転手を辞めた
入社して1ヶ月は新人研修だ。その前に、スーツを買った。初めてスーツ身に付け、電車通勤した。
自分のスーツ姿を見て喜んだ。人生逆転は無理だけど、普通のサラリーマンになれたんだ、と。相変わらず、似合ってはいないが。
転職活動で多額の金を費やした。取り戻さなければならない。
そして、アイドルのためにも仕事を辞めるわけにはいかなかった

私は日本軍の下等兵

•日本軍
それは天皇陛下に身を捧げ殉じた、今は亡き組織日本軍が存在していたのは、たった80年前だ。だが、社会の変化は著しく早く、我々の記憶の彼方から消えようとしている
日本軍の上下関係は厳しく、指導という名の虐めが頻発する。そして、虐めの種類も多かった。ベッドのメイキングが少し乱れていただけで殴られ、靴磨きで汚れが残っていれば蹴られる。"体の両横にある机の上に手を置き、ただただ自転車漕ぎをする"といった虐めもある。その最中、敬礼や手放し運転など理不尽な指示も飛んだ

では、日本軍と母親がどう繋がるのか?
それは"閉鎖的"という観点だ
話は高校2年生が終わった春休みに遡る

 


•金銭の壁
学びたいことが学べないなら、大学に行く情熱は無かった。
そもそも、学びたいことがなかった。だが、全くなかったというと嘘になる。
「担任が推薦状を出してくれるから」と神奈川歯科大学に行こうかと思ったが、母親に学費が高すぎて無理と言われた。偏差値は充分に足りていたし、高校3年になって、やっと自分が興味を持った分野だったので無念だった。それから、理工学部を勧められたりしたがあまり興味が湧かなかった。周りは自分より成績が悪い人の方が多いので、寄付金での裏口入学や定期試験の点数の水増しなどで次々と大学に合格。そんな不正を間近で見ていたこともあって、受験勉強への興味が徐々に薄れていってしまった。
浪人した生徒もいる。つまり金持ちだ。予備校の学費は半端ない。私は何もしないまま高校を卒業して人生のレールを外れた。浪人生が羨ましく思えてきて、自分が情けなさすぎてすごくショックだった。
私は最終的に専門学校に進学した。
だが、母と分かり合える事は無かった

理工学部は定員割れで、推薦枠で行けた。私の成績は一貫クラスなら上位5人の中にいたので、苦手科目は極論テストが全部白紙でも理工学部は確実だった。
気づいてしまった
あぁ。大学に行きたいのは自分じゃなく、母親だったと
。大学に行く理由が見当たらなかった
。
そして、大学に行く理由、大学に入り働く意味を改めて考え始めた
自分の人生に選択権が無かった事に初めて気づいた
今までの人生は、虚構だった
夢から覚めた

•大学に行かなかった理由
今までは、親の敷いたレールの上に乗って生きていた。良くも悪くも楽だった。だが、そのレールが無くなり、自分自身の足で歩く時、どこへ向かえば良いのか分からなかった。また、親が決めた事が全てで、自分が欲しいものを明確に言えない「なんでもいい症候群」に罹っていた私は岐路に立たされた。
勉強をする"意味"や学校に行く"意味"すら考えたことがなかった。ロボットから人間に進化した、とも言える。中学受験も習い事も中高の勉強も"やる意味"を考えた事がなかった。言われるがままだった。
頭が良いから大学に行く。それは、高偏差値なら当たり前なのかもしれない。だが、それに疑問が生じた瞬間、何の為に大学に行くのかを考える必要に迫られた。
私は日本軍の下等兵だった。母親という日本軍の上層部の通りに、軍務令を処理し続けていた。ついに、疑問が出てきた。だが軍の上層部(親)に作戦変更、作戦が正しいかどうかを話し合おうとしても取り合ってくれなかった
しかし、考えても何も分からなかった。名前を書けば行けるその辺の大学が何をするのかも全くわかりえなかった。何がやりたい事なのか分からなかった
そして、他にやりたい事もなかった。興味がある事は殆ど無い。数学が得意だったから理系志望というだけだった。凄い人になって、私を虐めた同級生を見返してやりたいという気持ちもあったから、歯学部か理工学部。もし金銭的に余裕があれば、歯学部に行っていたのかもしれない。数学が得意なら、今だったらプログラミングを学んでエンジニアになるんだろう。そんな職業が存在する事すら知らなかった

当時は総理大臣の名前も知らない世間知らずだった。新聞も読まないし、ネットで検索するのもAKB48ぐらい。学校という狭い枠の中でやらなきゃいけない事を自分の意思とは無関係にやっていた(やらされていた)。それに疑問を感じなかった。そして、学校での人間関係は全て遮断していた。当然だ、テストには出ないのだから
私に人権は存在しない
だが、成績を取らなければ怒られる事を敏感に感じ取っていた私に、勉強を頑張らないという選択肢は存在しなかった
母親に「なんで大学がいいの?」と聞くと「将来困らないために。どこでも良いから行け(笑)」って。他人事だった。さらに、
「お金を払ってるんだから、親の言う事を聞け」

「今まで掛けた塾のお金が勿体ない」

「学費にいくら掛かってると思ってるんだ!」

と色々な事を言われた。いちいち、罪悪感をなじってくる。学校も受験も塾も、自分から行きたいと言い出したわけじゃない。むしろ、塾は必要ないから辞めたいと言ったら反対された。親の言う事に反抗できない、自分の我を押し通せない良い子だった。

「成績が良いのに、勿体ない」
「勉強しか出来なくて、中途半端なんだよ!!」
「学部なんかで悩むな。大学に入ってから、やりたい事を探せばいい」

何としても母は私を大学に入れようとした。
「大学に行かないなら、家から出て行け」と一回だけ言われた気もする。気もする、というのはあまりにもショックで記憶が曖昧だからだ。
好きで私立に行っているわけではない。親に私立へ連れて行かれたから行ったのであって、成績下位の金持ちばかりの奴らに虐められ、毎日屈辱感に苛まれることが事前にわかっていたなら私立には行かなかった、そして成績も取らなかった。だが、私立へ行き多額の金を注ぎ込み大学に行ける成績を取った事で選択肢が逆に狭まった
「どこでも良いから、大学に行かないと勿体ない」
これは何百回も言われて、祖父母にも言われた。だから、勿体ないという言葉は地球で一番嫌いだ


母親は、「大学」という宗教の信者だった。エルメスのバッグやベンツの車などのブランドと一緒だ

人は何かにすがらないと生きていけない

だから、分かりやすい学歴を信仰する。それは一種の宗教だ。

大学に行けば救われる。
大卒資格があれば、一生食う事に困らない
大卒になれば幸せになれる

確かに、現代の日本では確かに事実かもしれないが、18歳の私には分からなかった。母親を改宗させる事はできなかった。オウム真理教の様に、 ISの様に、一度信じ込んだ教義を他人が辞めさせることは難しいのかもしれない。大学はカルト宗教では無いが、学歴が全てとなると心苦しかった。

何度頼んでも歯学部はダメだと言われた。浪人もダメだと。散々大学に行けと言っておいて身勝手すぎる。歯学部がダメなら、「歯学部以外で考えなさい」と最初に言うべきじゃないか。

母親と喧嘩をして「死ね」と何百回も思った。それでも母親はへこたれず、「親が子に間違ったことは言わない!!」と。自分が間違っているという認識は1ミリも無かったから、話し合う土壌はなかった

 

•浪人or理工学部

担任教師と何度も面談をした(一貫生で成績トップ5に入る私が大学に行かない、正確には金がなくて行けないと言ってきたのだから当然だと思う)。今思えば母親より担任に世話になった。感謝している

夏休みも必要ないのに家庭教師の頻度を増やされ、テスト前は週1で来るようになった。勉強時間を増やす為か、携帯は回収された--やりとりをするような友達はいないから、問題なかった--
母親は重度の心配性だった。私を大学に行かせたかった理由は、周りの母親へのマウントもあるかもしれないが、一番大きいのは"女手ひとつで子供を大学へ行かせた"と周囲に自慢したいのだろう。女手ひとつ聞くと事情を知らない他人は離婚した後仕事と子育てを両立して頑張ってきたと想像してしまう。実際は違うのだが。離婚後は父が我が家の家賃と学費を払っていたし、母はパートをしていたが、散々父の脛を齧りながらも「生活費を入れてもらえるから」と不倫相手を同居させ金を貢がせていた。(だから、父に感謝するというのは筋が通るし、実際感謝している。が、母に感謝するというのは筋が通らない。)それから、母親はバブルの時に就職したが、その後の不況・就職氷河期で資格が無いと食ってはいけないと思ったのだろう。確かに、大企業でもリストラされる時代だ。心配性が、教育ママを生んだ。(気持ちが分からないでもないが)、「あなたの為」と言われると心苦しかった。自分の子供を良い大学に行かせたい気持ち、それは完全なエゴだ。「あなたの為」、これは卑怯な言葉だった
大学に行く"空気"は完全に醸成された。今更、作戦を変更する事はできなかった
祖父にも散々言われた「親の言うことが聞けなら、人間をやめろ」言われた事を記録し将来突き付けようと思ったが、可哀想だと思って辞めた
父は放任主義だった。母と私の間に入って調停する事はなかった。むしろ、誰の味方でも敵でもなかった。借金したとはいえ、それ自体が罪になることはないのに、母親の身勝手な理由で離婚を言い渡され、母親の不倫にもなんとなく気付いていただろうから、精神が参るのは気持ちとして分かる。が、それでも大黒柱としてはもう少し頑張って欲しかった。

母はいつでも「今我慢すれば、後で楽になる」と言っていた。その言葉は欺瞞に満ちていた。中学受験、学校のテスト…永遠に我慢が続き、いつまで経っても楽しくならない。

働いて年収〇〇円になれば楽になる、結婚すれば楽になる、会社(病院)を定年まで働いたら楽になる…
老人になったら楽しくなるの?
遅すぎない??
死ぬ間際が、1番楽しいの???
我慢するのは大事だが、今を犠牲にする人生にうんざりしていた。

どんどん、自分の進路をどうすればいいか分からなくなった。神奈川歯科大は受験をすれば多分受かる(同級生の1人は神奈川歯科大に行った)。だが、国公立大学歯学部に入れる可能性は低い。浪人はダメと言われた。金がないからだろう。大学進学以外を選択すれば、母親の思い通りにならずに済むが毎日文句を言われる事は必至だ。とりあえず大学に行けば、何も言われない安寧な暮らしが待っている。
学校の担任との3者面談でも、母は担任を圧倒していた。私が喋る時間は与えられなかった。周りの堀を埋められる如く逃げ場が無くなっていった。
そして、今までに掛けた時間--サンクコスト--が私を圧迫した。私立に行く必要がなければ、勉強は最低限しかしなかっただろうし、もっとカースト上位の部活で楽しくやってたかもしれない。成績下位の人間に私は「貧乏で大学に行く金ないくせに、毎日何で勉強してるの?w」と聞かれる。バカにしているのかは分からないが、舐められていると感じていた。だから、歯学部に行かなければ全てが無駄になる、そんな思いもあった。

部活は写真部だったが、たまに化学部にも顔を出した。そこの人に進路の悩みを相談したら「親とよく話し合ったら?」と言われた。これは、家族問題(毒親)あるあるだが、親と話し合う事自体が出来ないから問題になっているのだ。話し合いが出来れば、そもそも問題は生じない。母は、テロリストなのだ。交渉の余地は無い。

そこで話した生徒とは今までクラスメイトだった事も、存在すら知らなかった。彼は理科の先生になるのが夢だった。それが彼と話した最初で最後の日だった。
理工学部に興味を出す為にも、化学部の部室に行った。面白かったが、これをやりたい!とまではいかなかった。

 

結局…
同級生の、薬学部志望の生徒に相談した。「親が言うから、行くのは違うんじゃない?」と言われた。正論だった
そんなに仲が良いわけじゃない女生徒にも軽く聞いた
「大学に行くか迷ってる??贅沢な悩みだね笑」
と言われ、話はそこで終わった。他人からすれば、大学に行ける成績があるのは絶対的な善なんだろう
そして、親が歯科医師で家業を継ぐため歯学部を目指している違う学校の生徒に、自分は歯科医師になりたくないと相談された。胸が痛く、罪悪感に包まれ、自分の悩みは打ち明けられなかった
大学に行くかを決める期限が迫っていた。大学に行ってから、合わなければ中退すれば良いという考えが頭の中を駆け巡っていた。自分を無理やり説得していた
結局、大学に行く意味は見当たらなかった
勉強のスランプも起きつつあったが、良くも悪くも成績は落ちなかった
そして、卒業式で同級生にバカにされた
「貧乏人は頭良くても大学に行けなくて可哀想だな。精々頑張れよ」
と。それも、裏口入学で大学合格が決まった奴らだ。よく覚えている

母親との信頼関係は0になった、いや元々0だったからフリ切って−5000ぐらいになったという方が正しい
最終的に、私は自分の進路について考える事を先延ばしにし、束の間の安息を得た
父も私の進路がようやく決まった事で、安心した。しかし、それが泥沼の戦争の始まりとは誰も知る由がなかった

ばあちゃん、ゴメン。自慢の孫になれなかったから、もう会わない 〜プロローグ〜


プロローグ
高校を卒業して8年が経った。そして、仕事もパッとせず、結婚も諦め、子供の頃に思い描いていた未来とは正反対の日々を過ごしている。
高校在学時、生徒は1学年400人程度。大学に行かない人間は1人いるかいないか。また、私は貧乏で神奈川歯科大学の推薦入試の申込みすら拒否した人間、これは勉強をしても受からない人間を除きほとんどいないだろう


勿論、『高校を卒業したから大学へ行かないといけない』という法律はない。が、一般的に考えればおかしい

「成績良いのに、なぜ大学に行かなかったの?」

という疑問が湧く。この文章は
なぜ大学に行かなかったのか?
そして、これから何をするのか?
という疑問を払拭する為に書いた
また、何故わざわざ文章にして公開する必要があるのか?という疑問も湧くだろう
最大の理由。それは、"スッキリしない"から
自分の悩みをさらけ出せなくて苦しかった。もちろん、言わなくて良いこともある。だが、誰かに相談したかった


ただ、友達もおらず、たまに話しても話が通じない・共感して貰えない事もあった。境遇が違うのか、私の贅沢な悩みは聞く価値が無いからなのか…そして口頭だと伝わらない。そして悩みを相談するのは難しく、技術が必要だ。悩みが大きすぎる事に加え、元々の相談をしない性格から、ほとんど誰にも言えなかった。

 

カウンセリングに行けばなんとなく気持ち良くなる。だが、翌日になれば元通りになり、次第に足が向かなくなった。
精神科や心療内科には行かなかった。行けば良かったかなとも思う。うつ病の気もなくは無い。統合失調症SSRIなど精神科の勉強も一通りしているから知識はあったが、いざ自分が投薬されると思うと少し怖かった部分もあったの。また、自分が言いたい事を言いスッキリした事から、文章を書けば気持ちが晴れると思う節もある。
だから、文章を書いても調子が良くならない場合、精神科に行く事になる。

 

まずは、幼少期・中学受験までを纏めていく


•勉強マシーンの誕生〜エリート街道〜
横浜で生まれ育ち、地元の幼稚園に通う。祖父母が住む群馬へ、よく遊びに行った記憶がある。
母親は専業主婦。勉学に対しては厳しかった。それでも漫画とかゲームは色々買ってくれた。何かを禁止されるような事はなく、普通の母だった。買い物について行ったりはしたけど、よくパシリにされた。そして、心配性と言う割にはあれを買ってこい、これを買ってこいなどと私を良いように使っていた。
父親は、普通のサラリーマン(といっても、有名な会社勤務で年収1000万円ぐらいだから裕福な家庭だ)。朝早くから家を出て、帰りは夜遅かったから、小さい頃からほとんど喋らなかった。休日は父も疲れていて、家で過ごすことが多かった。車で2人で出かけたこともあるが、緊張感があった。
小学校は私立だった。この頃は人生が全て上手くいっていた。加えて、水泳とピアノ教室に通う。大変とは感じず、卒なくこなしていた。
周りより勉強ができたせいか、すぐ調子に乗って他人とトラブルを起こすこともあった。度が過ぎたイタズラを頻繁にやらかして親がよく学校に呼び出されて怒られたせいか、夫婦仲は悪かったのかもしれない。夜になると喧嘩をしていた。

5年生の冬に親が離婚してしまったが、当時は友達もいたので、学校に行くことはできた。その年は親の離婚に泣いただけだったので、1年間頑張ればそのまま中学に上がれるだろうと高を括っていた。

 

•ところが両親の離婚で、どん底まで落ちた
これはやばいかもな、と思ったのは6年生の夏。定期試験を受けるたび、レベルの高い塾に通う周りの子にどんどん追い抜かされていき、私は離婚の影響でゆっくりと成績が下がっていった。
自分の方が勉強時間や努力の総量は多いのに、結果が出ない。どう勉強すれば良いのかがわからなくなった。進級のタイミングで親が離婚したことが周囲に知れ渡り、担任からも「鈴木さんは良い子ですね」と言われてたが、全盛期とはあまりに成績が落ち込んだため見放されて、焦りにつながった。

6年生から個別指導塾に通う。中学受験の為だ。附属中学に上がるのは難しいと言われた。確かに、成績も落ち込んでいた。それでも、担任に頼み込めば上がることはできただろう。けれど、私は頼み込むことはしなかった。確かに、地元では有名な進学校だし、そのまま受験せずストレートに高校まで行ける魅力もあるが、そこまで縋りたい偏差値の学校というわけでもなかった。加えて、親の離婚は学年中に知られてしまったし、エリート揃いの同級生の中にいるのが恥ずかしいという思いがあった。
自分から中学受験を言い出した訳では無い。なんとなく、始まった。正直、私は公立でも全然良かった。
同じように中学受験をする同級生は、60人いて10人位。私はレアキャラだった。
その辺りから母親が更に厳しくなった気がする。
教育ママの誕生だ
なぜ、離婚して貧乏になったのに中学受験をしたかというと、母が「公立は虐めが多い。私立じゃないとダメ」と言ったからだ。
だが、実際は私立の方が虐めが多いのは言うまでもない。特に貧乏家庭の子が私立に行けばどうなるか、推測することは容易い。
しかし、母の言うことは絶対命令。自分より学歴の高い大学に行かせたかった。良い大学に入り良い会社に就職するという考えだ。決して間違いではない。バブル崩壊を経験した事も、引き金になったのかもしれない

周りの友達は、栄光や聖光といった神奈川の名門私立を目指していたが、私だけ偏差値40くらいの、あまり行く意味のない中高一貫校を目指した。
いつからか「同級生より凄い人にならないといけない」という暗黙の了解が私の中で、家庭の中で生まれた。父親の仕事ぶりが大変そうだったからか、サラリーマンにはなりたくないと思った事は覚えている。ただ、自分がサラリーマンにすらなれないと気づくのはずっと先のことだ
6年生の1月は学校を休んで塾通い。兎にも角にも、年末年始も
勉強!勉強!!勉強!!!
1日8時間は当たり前だ。10時間は勉強した
そして、中学受験は成功。
合格した時、母親に褒められた記憶はやはり無い