平成の太宰治

本業の傍ら、個人事業/完全報酬がコンセプトの結婚相談所を運営しています ニックネーム「平成の太宰治」の由来は、 平成生まれで、人間失格だから、です。

ばあちゃん、ゴメン。自慢の孫になれなかったから、もう会わない 〜プロローグ〜


プロローグ
高校を卒業して8年が経った。そして、仕事もパッとせず、結婚も諦め、子供の頃に思い描いていた未来とは正反対の日々を過ごしている。
高校在学時、生徒は1学年400人程度。大学に行かない人間は1人いるかいないか。また、私は貧乏で神奈川歯科大学の推薦入試の申込みすら拒否した人間、これは勉強をしても受からない人間を除きほとんどいないだろう


勿論、『高校を卒業したから大学へ行かないといけない』という法律はない。が、一般的に考えればおかしい

「成績良いのに、なぜ大学に行かなかったの?」

という疑問が湧く。この文章は
なぜ大学に行かなかったのか?
そして、これから何をするのか?
という疑問を払拭する為に書いた
また、何故わざわざ文章にして公開する必要があるのか?という疑問も湧くだろう
最大の理由。それは、"スッキリしない"から
自分の悩みをさらけ出せなくて苦しかった。もちろん、言わなくて良いこともある。だが、誰かに相談したかった


ただ、友達もおらず、たまに話しても話が通じない・共感して貰えない事もあった。境遇が違うのか、私の贅沢な悩みは聞く価値が無いからなのか…そして口頭だと伝わらない。そして悩みを相談するのは難しく、技術が必要だ。悩みが大きすぎる事に加え、元々の相談をしない性格から、ほとんど誰にも言えなかった。

 

カウンセリングに行けばなんとなく気持ち良くなる。だが、翌日になれば元通りになり、次第に足が向かなくなった。
精神科や心療内科には行かなかった。行けば良かったかなとも思う。うつ病の気もなくは無い。統合失調症SSRIなど精神科の勉強も一通りしているから知識はあったが、いざ自分が投薬されると思うと少し怖かった部分もあったの。また、自分が言いたい事を言いスッキリした事から、文章を書けば気持ちが晴れると思う節もある。
だから、文章を書いても調子が良くならない場合、精神科に行く事になる。

 

まずは、幼少期・中学受験までを纏めていく


•勉強マシーンの誕生〜エリート街道〜
横浜で生まれ育ち、地元の幼稚園に通う。祖父母が住む群馬へ、よく遊びに行った記憶がある。
母親は専業主婦。勉学に対しては厳しかった。それでも漫画とかゲームは色々買ってくれた。何かを禁止されるような事はなく、普通の母だった。買い物について行ったりはしたけど、よくパシリにされた。そして、心配性と言う割にはあれを買ってこい、これを買ってこいなどと私を良いように使っていた。
父親は、普通のサラリーマン(といっても、有名な会社勤務で年収1000万円ぐらいだから裕福な家庭だ)。朝早くから家を出て、帰りは夜遅かったから、小さい頃からほとんど喋らなかった。休日は父も疲れていて、家で過ごすことが多かった。車で2人で出かけたこともあるが、緊張感があった。
小学校は私立だった。この頃は人生が全て上手くいっていた。加えて、水泳とピアノ教室に通う。大変とは感じず、卒なくこなしていた。
周りより勉強ができたせいか、すぐ調子に乗って他人とトラブルを起こすこともあった。度が過ぎたイタズラを頻繁にやらかして親がよく学校に呼び出されて怒られたせいか、夫婦仲は悪かったのかもしれない。夜になると喧嘩をしていた。

5年生の冬に親が離婚してしまったが、当時は友達もいたので、学校に行くことはできた。その年は親の離婚に泣いただけだったので、1年間頑張ればそのまま中学に上がれるだろうと高を括っていた。

 

•ところが両親の離婚で、どん底まで落ちた
これはやばいかもな、と思ったのは6年生の夏。定期試験を受けるたび、レベルの高い塾に通う周りの子にどんどん追い抜かされていき、私は離婚の影響でゆっくりと成績が下がっていった。
自分の方が勉強時間や努力の総量は多いのに、結果が出ない。どう勉強すれば良いのかがわからなくなった。進級のタイミングで親が離婚したことが周囲に知れ渡り、担任からも「鈴木さんは良い子ですね」と言われてたが、全盛期とはあまりに成績が落ち込んだため見放されて、焦りにつながった。

6年生から個別指導塾に通う。中学受験の為だ。附属中学に上がるのは難しいと言われた。確かに、成績も落ち込んでいた。それでも、担任に頼み込めば上がることはできただろう。けれど、私は頼み込むことはしなかった。確かに、地元では有名な進学校だし、そのまま受験せずストレートに高校まで行ける魅力もあるが、そこまで縋りたい偏差値の学校というわけでもなかった。加えて、親の離婚は学年中に知られてしまったし、エリート揃いの同級生の中にいるのが恥ずかしいという思いがあった。
自分から中学受験を言い出した訳では無い。なんとなく、始まった。正直、私は公立でも全然良かった。
同じように中学受験をする同級生は、60人いて10人位。私はレアキャラだった。
その辺りから母親が更に厳しくなった気がする。
教育ママの誕生だ
なぜ、離婚して貧乏になったのに中学受験をしたかというと、母が「公立は虐めが多い。私立じゃないとダメ」と言ったからだ。
だが、実際は私立の方が虐めが多いのは言うまでもない。特に貧乏家庭の子が私立に行けばどうなるか、推測することは容易い。
しかし、母の言うことは絶対命令。自分より学歴の高い大学に行かせたかった。良い大学に入り良い会社に就職するという考えだ。決して間違いではない。バブル崩壊を経験した事も、引き金になったのかもしれない

周りの友達は、栄光や聖光といった神奈川の名門私立を目指していたが、私だけ偏差値40くらいの、あまり行く意味のない中高一貫校を目指した。
いつからか「同級生より凄い人にならないといけない」という暗黙の了解が私の中で、家庭の中で生まれた。父親の仕事ぶりが大変そうだったからか、サラリーマンにはなりたくないと思った事は覚えている。ただ、自分がサラリーマンにすらなれないと気づくのはずっと先のことだ
6年生の1月は学校を休んで塾通い。兎にも角にも、年末年始も
勉強!勉強!!勉強!!!
1日8時間は当たり前だ。10時間は勉強した
そして、中学受験は成功。
合格した時、母親に褒められた記憶はやはり無い