平成の太宰治

本業の傍ら、個人事業/完全報酬がコンセプトの結婚相談所を運営しています ニックネーム「平成の太宰治」の由来は、 平成生まれで、人間失格だから、です。

失業者とバシー海峡

バシー海峡

それは、太平洋戦争時、南東諸島に兵員や物資などを補給するための航路

 

太平洋戦争時にはヒ船団やミ船団等の石油輸送船団、フィリピンへの増援輸送船団など、日本の重要輸送船団が多く航行していたことから、アメリカ海軍によって「コンボイ・カレッジ」(英語: Convoy College;船団大学)とあだ名され、潜水艦部隊の格好の作戦場と見なされた[1]。そのため、戦争後半にはアメリカ海軍の潜水艦が多数配置されて通商破壊に従事し、多くの日本輸送船を沈めたことから「輸送船の墓場」と呼ばれた 

出典: wikipedia バシー海峡


 

 

食糧や弾薬の補給として重要だが、アメリカに多数の輸送船が沈められたという


船員たちは広さが1畳のスペースに7人が押し込まれていた(アウシュビッツ収容所より劣悪な環境)

 


私が人生をやり直す事は、半ば厳しくなっていた。だが、決められた作戦を途中で逃げ出すわけにはいかない

やりたくもない仕事をすることで、多大な時間とお金が散っていった。それが、バシー海峡で多大な損害が出た事とリンクしたのかもしれない

 

 

•社会人2年目(失業1回目)
失業は、初めての経験だった
会社を辞めるのは次の就職先を決めてから辞めるという約束だった。仕事を辞め、給料がなくなっても月に3万もの寄付金を払い続けた。私のために蓄えられるわけではなく、母の金になるという形だ。私には寄付金を払うという発想が無かった。話し合いはほとんど無いまま寄付金を払った。恩恵を受けられるかは分からなかった

大学を出ていないとどうしてもブラック企業に入るか、誰もがやりたがらない仕事(介護や運転手など)という選択肢しか無い。高校の同級生は全員が大学卒か大学院卒である(中には中退者もいる)。ブラック企業以外の道は、非正規雇用や専業主婦だ。結婚もできない私に専業主婦は無理だった
自分はそもそも仕事への興味関心が薄かった。プライベートではコミュニティが無く、知り合いも少なかった。アイドルのイベントに参加するうちに友達(というより知り合い)は増えたが、相談は出来なかった。そもそも、大学を出てないと言う事すら恥ずかしかった。なので本当のことは言わなかった。
医大生だと言うと「お金持ちなんでしょ?良いな〜笑」という反応もあった。テキトーに受け流していたが、「死のうか悩んでいます」とは言えない
カウンセリングに行くという発想もなかった

9月に仕事を辞めた後は2ヶ月無職だった。12月からコンビニのバイトをしながら、医学の勉強は継続し、屈辱的な生活を送っていた。
バイトは初めての接客業だったが、なんとか年末年始を無事にやり過ごし、2016年になった

•社会人3年目(失業2回目)
引き続きバイトをしながら、医学書を読む毎日だった。目立った再就職活動はしていなかった。
2月に印象的だったことがある。女性が多い職場で言われた一言。「鈴木君はいつもやる気なさそうだよね」みたいに言われて、ショックだった。何も熱中してないし、この先、人生逆転はほぼ不可能な宙ぶらりん状態。女性の直感は鋭い
学業成績は良かったものの、自分には自信が無かった
「なんで働いてるの?」
という問いに「金のため」以外に適する答がわからない
聞かれるのが怖かった。
何も面白くなかった

2月末に契約延長か満了かという話があり、店長と面談した。バイトの面接の試験官が「人手が足りないので、絶対延長だよ〜笑」といった事を真に受けたのかもしれない。研修だから「まぁ、テキトウでいっか」という気持ちもあったんだろう
研修は不合格だった。そして、2回目の失業が決まった

•ブログを始める
失業した後は、バイトをしつつ悶々した日々を過ごしていた
再就職活動はしたが内定は0で、給料は10万なかった。
その頃、ブログを始めた(このブログではない)。タイトルは「人間失格」。なかなか好評だったようで、沢山の人が見てくれているようだ。
何か面白い事をしたいという思いもあった

•採用の通知が来ない
5月になっても再就職が決まらなくて、失業期間が長引いた。6月になっても声がかかることは無かった。
「これは、もうダメたな。失業手当受給ほぼ決定だ」
そう思った。ハローワークに行って失業手当として月10万もらった。たった10万だ。
そして
「次落ちたら、タクシー運転手になろう」
という思考が生まれた。周りに20代でタクシー運転手をやってる人間はいない。運転手は普通免許があり、事故歴がなければ誰でも採用だ。
受かる見込みのない採用試験を受けるだけお金と時間の無駄だった
もう疲れていた
楽しくない
面接官にバカにされる
何をやっているんだろう
まともに働きたくなかった
生きているのが嫌だった

タクシー会社の面接合格したとしても、8月にならないと勤務できなかった(タクシー運転手に必要な二種免許は普通免許取得から3年経ってないと受験資格を得られない、自分は2013年8月普通免許取得)
正直、大学に行ってない時点で人生逆転できる見込みは薄かったから、運転手になるのも本気ではなかった。腰掛け程度にやりながら、そのうち結婚できたらいいなと思っていた
8月になって、面接を受けた。ほとんど雑談で終わった。多分、合格かなーって
結果は採用、タクシー会社に入った。一応、正社員だ。
母親には言わなかった。なぜ言わなかったのかは言うまでもないだろう

結局、運転手を辞める直前まで母親にはバレなかった。ある日、免停直前を知らせる葉書が家に届き、それを見られてしまってバレたのだ。母親は驚いてた。複雑な気分だった。それがきっかけで運転手をやりながら、転職活動をした。再び多額の金を費やす事になる。そして、採用される保証・失業しない保証も無かった
また、タクシー会社の賃金体系にも不満だった。完全歩合制で、売上の半分が自分の給料となる。月に50万な売上なら、25万が総支給額。そこから税金や年金などを引かれて、手取り20万ちょっとだ。しかし、手取り20万を取れるのは年3回程度。年収にすると280万くらい。結婚など到底無理だった。


ブログはたまに記事を書いていたが、1月に受けた面接の前に燃え尽きた。下らない事をやるのに少し嫌気が差していた

一般企業の面接を受け、20社目くらいで
やっと、合格した。
理由はわからない。
それでも、受かったから嬉しかった。いや、ホッとしたという言い方が正しい
採用が決まり運転手を辞めた
入社して1ヶ月は新人研修だ。その前に、スーツを買った。初めてスーツ身に付け、電車通勤した。
自分のスーツ姿を見て喜んだ。人生逆転は無理だけど、普通のサラリーマンになれたんだ、と。相変わらず、似合ってはいないが。
転職活動で多額の金を費やした。取り戻さなければならない。
そして、アイドルのためにも仕事を辞めるわけにはいかなかった